
江戸幕府のもとで
戦国の雄、伊達政宗の生涯にとって、岩代は、大内備前の寝返り、父輝宗の最期など特別な意味のある地でした。
天正18年(1950)、豊臣秀吉の奥州仕置は戦国時代の終結を意味しています。
当時の四本松城の知行は、25000石でした。ちなみに二本松城は18000石といわれています。
宮森城・小浜城は独立した権限の領主ではなく、会津若松城や二本松城の支城としての存在となり、明治維新の廃藩置県まで続きました。
二本松班の郷村支配は下表の通りです。各組には、70石~150石格の武士が代官として任命されています。
天正18年(1950)、豊臣秀吉の奥州仕置は戦国時代の終結を意味しています。
当時の四本松城の知行は、25000石でした。ちなみに二本松城は18000石といわれています。
宮森城・小浜城は独立した権限の領主ではなく、会津若松城や二本松城の支城としての存在となり、明治維新の廃藩置県まで続きました。
二本松班の郷村支配は下表の通りです。各組には、70石~150石格の武士が代官として任命されています。
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| 邪を払う |
戊辰と維新
幕末、伊達郡の養蚕好況の影響は、小浜・針道両組を賑わせていましたが、二本松藩の財政は窮乏していました。百姓一揆も多発していました。
そうした中、薩摩・長州・土州を主軸とする倒幕軍が東上し、奥州の天地は一大戦火に包まれました。この地方も激動の渦の中にあったに違いありません。そうして慶応4年(1868)、会津藩の降伏によって戦争は終わりました。
この戊辰の血戦は、近代の日本への脱皮を図る、歴史の大きな転換ともなったのです。
明治前期の岩代町は、宮守村(小浜村)、小浜成田村、西勝田村、上長折村、下長折村、西新殿村、東新殿村、杉沢村、初森村、田沢村、百目木村、茂原村の12ヶ村と上太田村の一部にあたる地域でした。人口は小浜村が最も多く、1593人と記録されています。全人口は約9000人と推定されています。
明治22年(1889)4月1日の町村制施工と同時に、小浜・新殿・旭・大田村が誕生。その後、明治34年(1901)に小浜村は町制を施行し、小浜町となりました。
そうした中、薩摩・長州・土州を主軸とする倒幕軍が東上し、奥州の天地は一大戦火に包まれました。この地方も激動の渦の中にあったに違いありません。そうして慶応4年(1868)、会津藩の降伏によって戦争は終わりました。
この戊辰の血戦は、近代の日本への脱皮を図る、歴史の大きな転換ともなったのです。
明治前期の岩代町は、宮守村(小浜村)、小浜成田村、西勝田村、上長折村、下長折村、西新殿村、東新殿村、杉沢村、初森村、田沢村、百目木村、茂原村の12ヶ村と上太田村の一部にあたる地域でした。人口は小浜村が最も多く、1593人と記録されています。全人口は約9000人と推定されています。
明治22年(1889)4月1日の町村制施工と同時に、小浜・新殿・旭・大田村が誕生。その後、明治34年(1901)に小浜村は町制を施行し、小浜町となりました。
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| 歌川(安藤)広重作 陸奥安達百目木駅八景図 |
義務教育の成立
明治33年(1900)、第三次小学校令が施行され、四年限の義務教育がスタートしました。
国語の教科が生まれたのもこの時期です。国体の発露として、元旦・天長節・紀元節の儀式、教育勅語、君が代の実施が求められました。
大正3年(1914)の第一次世界大戦により、国は好況を呈し、資本主義経済の発展が進みました。農山村は労働力の供給地としての役割を担っていましたが、一部の"金回りの良さ"に反比例して、人々は日々の生活に疲弊していました。当時の岩代町も例外ではなかったようです。
大正4年(1915)、米一升12銭だったものが、大正7年(1918)には37銭と異常高となり、米騒動も起きています。
国語の教科が生まれたのもこの時期です。国体の発露として、元旦・天長節・紀元節の儀式、教育勅語、君が代の実施が求められました。
大正3年(1914)の第一次世界大戦により、国は好況を呈し、資本主義経済の発展が進みました。農山村は労働力の供給地としての役割を担っていましたが、一部の"金回りの良さ"に反比例して、人々は日々の生活に疲弊していました。当時の岩代町も例外ではなかったようです。
大正4年(1915)、米一升12銭だったものが、大正7年(1918)には37銭と異常高となり、米騒動も起きています。
| 仏台発電所建築資材運搬(明治44年頃) |
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| 工場の人々(大正7年頃) 大内羽二重工場は動力機械を持ち、輸出向けの羽二重を生産していました。 工場前に盛装して集う人々の姿に当時の風俗がしのばれます。 |
初の国勢調査
世界の五大国に仲間入りした日本は、近代化のために、大正9年(1920)、第1回の国勢調査を実施しました。当時の小浜町の人口は8185人でした。
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| バスの開通 大正13年に小浜と二本松の間で乗合バスの運行が開始され、 さらに小浜から百目木へも通じるようになりました。 写真は東新殿を行く自動車と出迎える村民 |
戦争への序曲
昭和5年(1930)の新殿村を例示すると、総世帯数658戸のうち農家が528戸で、純農村であると言えます。農業生産額は1戸当たり552円でした。
不況が長引く中での旭村の納税状況は、世帯数513戸のうち未納世帯235戸。昭和9年(1934)を前後にこの地方は凶作地となり、戦時体制の影響も加わって、困窮生活を強いられる世帯も少なくありませんでした。
昭和12年(1937)の日中両国の衝突を契機に、日本は長期的大規模な戦争へと突入。大政翼賛会が結成され、大日帝国婦人会や部落会までもその傘下に統制され、軍国主義一色となりました。
本土決戦を想定した国民義勇軍の編成もなされ、町民も老若男女を問わず竹やりの訓練にかり出されました。
物資統制の中で、昭和20年(1945)、小浜町の中心街で大火が発生。住宅・非住宅あわせて338棟が全焼し、当時で200万円という莫大な被害が出ました。
不況が長引く中での旭村の納税状況は、世帯数513戸のうち未納世帯235戸。昭和9年(1934)を前後にこの地方は凶作地となり、戦時体制の影響も加わって、困窮生活を強いられる世帯も少なくありませんでした。
昭和12年(1937)の日中両国の衝突を契機に、日本は長期的大規模な戦争へと突入。大政翼賛会が結成され、大日帝国婦人会や部落会までもその傘下に統制され、軍国主義一色となりました。
本土決戦を想定した国民義勇軍の編成もなされ、町民も老若男女を問わず竹やりの訓練にかり出されました。
物資統制の中で、昭和20年(1945)、小浜町の中心街で大火が発生。住宅・非住宅あわせて338棟が全焼し、当時で200万円という莫大な被害が出ました。
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| 小浜尋常高等小学校授業風景(昭和11年) |
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| 東新殿小学校(昭和2年頃) | 小浜旧市街の四ツ角付近(太平洋戦争前) |
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| 小浜町青年学校の軍事教練(昭和18年) 教練の時間は、他の時間よりも多く、週に4時間ありました。 |
戦後の復興
ポツダム宣言を受諾して、戦争は終結しました。荒廃した国土の中で、軍国主義から民主主義へ転換がなされ、国民の新たな努力が始まりました。
昭和21年(1946)に日本国憲法が公布され、新たな普通選挙法や6・3制の教育制度も生まれました。その後、朝鮮戦争による特需景気もあり、日本は驚異的な復興を遂げることになります。
さまざまな制度や組織が変革される中で、最も大きな改革は、人々の精神と行動の変容でした。懸命に模索しながら戦後の混乱を乗り越え、そして町も新しい発展の時代へ向かっていきました。
昭和21年(1946)に日本国憲法が公布され、新たな普通選挙法や6・3制の教育制度も生まれました。その後、朝鮮戦争による特需景気もあり、日本は驚異的な復興を遂げることになります。
さまざまな制度や組織が変革される中で、最も大きな改革は、人々の精神と行動の変容でした。懸命に模索しながら戦後の混乱を乗り越え、そして町も新しい発展の時代へ向かっていきました。
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| バイク仲間(昭和28年) スクーターの登場で、バイク時代が到来。 国産メーカーも続出しました。 百目木の愛好家たちが勢ぞろいした時の写真です。 |
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| 第一臨時保育所(昭和28年頃) 農繁期に臨時保育所ができました。 子供たちはおとなしく親が戻るのを待っています。 |
小浜藤町付近((昭和26年頃) |
岩代町の誕生
合併後建築された旧岩代役場 |
昭和28年9月1日に公布された町村合併促法は、第二次世界大戦における地方行政全般の民主化に伴う住民負担の増大を改革しようとするものでした。政府は行政事務の再配分を勧告しましたが、その中で全国の小規模市町村を人口8千人から1万人程度を標準として合併することを示唆し、行政能率の向上と合理化を図ることを決めました。これが実現すれば全国の市町村8245が、3分の1の3373に減少するというものです。
同法は3か年の時限法であり、県内・郡内市町村の合併にかかわる動きが伝わってくるにつれ、さらには町村当局の主催する部落懇談会・パンフレットの各戸配布など合併の必要性が周知されたこともあって、その気運が高まっていきました。諸々の思惑や地理的要因などがからみあい、困難な面もありましたが、小浜町、新殿村、旭村と大田村の一部が合併して、昭和30年1月1日、新生「岩代町」が誕生しました。役場は小浜に設置され、町名は一般公募の中から「岩代町」とすることが決定いたしました。
合併時の戸数は2577戸、人口1万6950人、町の面積は96.72平方キロメートルでした (その後、昭和39年に東和町との境界変更が認められ、98.37平方キロメートルとなりました)。
新生岩代町は、10ヵ年に及ぶ建設計画を策定し、活力あるまちづくりに着手しました。人口、雇用、所得・生活水準、産業計画にまで多岐にわたり具体的に盛り込まれた計画は、町振興の大きな原動力となりました。そして、社会構造の変化とともに、その後も振興計画が立てられ、着々と豊かな住みよい町づくりが進められてきました。
同法は3か年の時限法であり、県内・郡内市町村の合併にかかわる動きが伝わってくるにつれ、さらには町村当局の主催する部落懇談会・パンフレットの各戸配布など合併の必要性が周知されたこともあって、その気運が高まっていきました。諸々の思惑や地理的要因などがからみあい、困難な面もありましたが、小浜町、新殿村、旭村と大田村の一部が合併して、昭和30年1月1日、新生「岩代町」が誕生しました。役場は小浜に設置され、町名は一般公募の中から「岩代町」とすることが決定いたしました。
合併時の戸数は2577戸、人口1万6950人、町の面積は96.72平方キロメートルでした (その後、昭和39年に東和町との境界変更が認められ、98.37平方キロメートルとなりました)。
新生岩代町は、10ヵ年に及ぶ建設計画を策定し、活力あるまちづくりに着手しました。人口、雇用、所得・生活水準、産業計画にまで多岐にわたり具体的に盛り込まれた計画は、町振興の大きな原動力となりました。そして、社会構造の変化とともに、その後も振興計画が立てられ、着々と豊かな住みよい町づくりが進められてきました。
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| 昭和のはじめの町並み | 昭和25年頃の 共同作業の米俵作り |
昭和27年 二本松・津島間国鉄バス(小浜) |
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合併後建築された旧岩代役場


